イスタンブール征服にまつわる知られざる事実16選

1453年、オスマン帝国はコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を征服し、1000年以上続いたビザンツ帝国に終止符を打ちました。この出来事はイスタンブール征服として知られていますが、教科書にはあまり出てこない事実も数多く残っています。城壁や大砲、名もない兵士たちの運命をたどると、知られざる16の事実が見えてきます。
1. 難攻不落の大城壁

ビザンツ時代のコンスタンティノープルを囲んでいた城壁は、全長約20キロメートルに及びました。中でも最も強固だったのが、陸側の最前線に位置するテオドシウスの城壁(Theodosian Walls)です。この区間だけで5.5キロメートルあり、金角湾(Haliç)沿いの城壁は約7キロメートル、マルマラ海沿いの城壁は約7.5キロメートルにわたっていました。当時の都市と比べても、世界最強クラスの城壁だったとされています。しかも多くの区間は1440年代に修復済みで、包囲戦が始まった時点では比較的良好な状態でした。
皇帝コンスタンティノス11世は、全ての城壁に兵を均等に配置するのではなく、外壁の防衛に戦力を集中させました。二重の高い壁と堀に守られたテオドシウスの城壁の最重要区間は皇帝自身が指揮し、北側のエディルネカプ門付近はジェノヴァ出身の司令官ジュスティニアーニ(Giustiniani)、ブラケルナエ地区はカタルーニャ出身の司令官、ユディクレ地区は主にヴェネツィア兵が守りました。この配置からも、守備側が自分たちの城壁を世界最高水準だと信じていたことがうかがえます。
ところが、弱点は残っていました。エディルネカプ門付近にある11世紀築造の古い区間は十分に修復されておらず、巨大砲の直撃を受けたこの場所が、やがて戦況を大きく左右することになります。
2. 伝説の巨大な大砲

逸話の尽きない大砲です。ハンガリー出身の技師ウルバン(Urban)が鋳造したこの砲は、全長およそ8メートル、砲口の直径は75センチメートルに達したと伝えられます。砲弾の重量については資料によって差があり、トルコ側の記録では544キログラムとされる一方、英語圏の資料では600ポンド(約272キログラム)と記されているものもあります。
いずれにしても、当時の基準では規格外の大きさだったことは間違いありません。
装填には約3時間かかりました。1日に発射できたのは、わずか5〜6回ほどです。設置後は方向を変えることができず、命中精度もほぼ期待できませんでした。ただ、標的である都市そのものが巨大だったため、いずれかの城壁には砲弾が当たる計算だったとされています。一度命中すると、昼夜を問わず作業を続けたビザンツ側の修復職人でも、復旧には1週間ほどかかったといわれています。
意外にも、この大砲をモデルに1464年に鋳造された同型の巨砲には、征服から354年後の1807年にも出番がありました。ダーダネルス海峡を強行突破しようとしたイギリス艦隊に対して発射され、複数の死傷者を出してイギリス軍を撤退に追い込んだと伝えられています。その後、1866年にスルタン・アブドゥルアズィズ(Abdülaziz)がこの1464年製の砲をヴィクトリア女王に贈りました。現在、その砲はイギリス・ハンプシャーのフォート・ネルソン(Fort Nelson、ロイヤル・アーモリーズ博物館の分館)に展示されています。
3. 寄せ集めだった守備隊

1453年当時、コンスタンティノープルは三方を海に囲まれた半島に位置し、古典的な包囲戦においては世界でも最も守りやすい都市のひとつでした。それまでに包囲された回数は20回ほどにのぼりますが、陥落したのは1204年、第4回十字軍のときだけです。包囲下でも海からジェノヴァの援軍や物資を受け取ることができ、ビザンツ側は製法が今も完全には分かっていない「ギリシアの火」を使う軍船でマルマラ海の制海権を保つこともできました。これらの事情から、十分な時間さえあればビザンツ側は飢餓に陥ることなく持久戦に持ち込めたとも考えられています。
1453年4月時点で城壁を守っていたのは、外国人部隊2000人を含む約7000人の兵士でした。城内の住民は5万人ほどだったとされます。
守備側の顔ぶれで目を引くのは、ビザンツ皇帝の傭兵部隊の中にドルガノ(Dorgano)と呼ばれるトルコ人指揮官と、約600人のトルコ人部隊がいたという記録です。ユディクレ門からイェニカプ門にかけての海側区間を守り、最後まで皇帝に忠実だったこの部隊については、当時イスタンブールにいたヴェネツィア出身の外科医ニコロ・バルバロ(Nicolo Barbaro)の記録によると、生存者は一人もいなかったとされています。一部の歴史家は、このドルガノが内乱期に行方不明になっていたオスマン王族オルハン・チェレビであった可能性を指摘しています。
4. 規模が揺れるオスマン軍

当時の記録では、オスマン軍の規模についての数字が資料によって大きく異なります。包囲戦の最中にイスタンブールにいた人物の証言でも、ニコロ・バルバロは16万人、キエフの枢機卿は20万人、レスボス島の大主教は30万人と記しています。差は2倍近くあります。どの数字も、そのまま受け取ることはできません。では、実際の兵力はどの程度だったのでしょうか。現代の歴史研究では、オスマン軍の実数は5万〜8万人程度だったという見方が有力です。そのうち1万人はエリート部隊であるイェニチェリ(Yeniçeri)で構成されており、兵の数・質ともにビザンツ側を大きく上回っていました。
8世紀にこの街を10万人規模で包囲しながら陥落させられなかったウマイヤ朝のアラブ軍と比べると、オスマン軍はより多様な構成でした。軍の中にはキリスト教徒の兵士が数千人規模で含まれており、セルビア王ブランコヴィッチが貢納の一環としてスルタンに送った1500人のキリスト教徒部隊「ヴォイヌク」も加わっていたと伝えられています。
5. アヤソフィアの運命

地震が繰り返し起きるこの地で、1500年近い歴史を持つアヤソフィア(Ayasofya、ハギア・ソフィア)が今も建ち続けていること自体が驚くべきことですが、この建物の存在意義はそれだけではありませんでした。当時、この大聖堂はキリスト教世界最大級の象徴であり、城壁を攻めるオスマン兵の多くが「いつかこの大聖堂の中で礼拝をしたい」と考えていたと伝えられます。
守備側の兵士たちも、このキリスト教最大の聖堂をイスラム教徒に渡さないために命を懸けていました。城壁が破られた日、数百人の市民がアヤソフィアに逃げ込み、形勢が逆転することを祈ったとされています。最後の場面で現れたのは、青銅の扉を破ってなかの人々を外へ連れ出したイェニチェリでした。外国の記録にはこのとき略奪や混乱があったと記されていますが、トルコ側の記録はこれを否定しています。
アヤソフィアで行われた最後のキリスト教の礼拝は1453年5月28日、皇帝自身も参列して執り行われました。東西教会の分裂(大シスマ)以来、初めてカトリックとギリシア正教の聖職者が同じ場でミサを行ったとも言われています。翌日、イコン(聖像画)は毛布や敷物で覆われ、征服を記念する礼拝が行われました。
スルタン・メフメト2世(Mehmed II)が「ファーティフ(征服者)」の称号を得たのはこの瞬間です。
それから570年以上を経た現在も、アヤソフィアは国際政治や民族感情に関わる存在であり続けています。ギリシャ側では、アヤソフィアを失ったことが今も受け入れられていないとされます。1919年にギリシャ軍がイスタンブールを占領した動機の一つにも、この建物と街の奪還があったと言われるほどです。アヤソフィアは1934年に博物館となりましたが、2020年にモスクとしての機能が復活し、現在は礼拝の場として一般公開されています。入場は無料ですが、礼拝の時間帯は見学エリアが制限されることがあります。女性は肩と頭を覆うスカーフを用意してください。靴は全員、入場時に脱ぎます。
6. 中立を保ったガラタ

現在のイスタンブールでは海を挟んだ隣り合う地区に見えるガラタ(Galata)とコンスタンティノープルですが、1453年当時は全く別の行政区でした。ガラタはジェノヴァ人の植民地です。こちらも半島状の地形で、防衛しやすい位置にありました。地図の上では目と鼻の先にある二つの地区が当時は別の世界だったことは、今の街並みからはなかなか想像できません。
実質的にはビザンツ側を最後まで支援していたものの、書類上は中立という立場を取っていたこの植民地は、包囲するオスマン軍にとって扱いの難しい存在でした。中立のガラタは自前の船で物資を調達し、余剰分をビザンツ側に売ることで包囲戦の長期化を助けていました。この交易は現在のカラキョイ(Karaköy)からエミノニュ(Eminönü)にかけての海域で行われ、金角湾の入り口が鎖で封鎖されていたこともあり、容易には止められませんでした。
鎖のガラタ側の端を管理していたこの植民地は、現代的に見れば十分に敵対的な立場だったにもかかわらず、スルタン・メフメト2世は特別な武力行使をしませんでした。これは、マルマラ海にビザンツを支援する統一イタリア艦隊が現れることを望まなかったためと考えられています。
その見返りとして、後述するようにオスマン軍の軍船が陸路を運ばれた際も、ガラタの植民地が特に何か行動を起こした記録は残っていません。
7. 征服者メフメト2世の実像

メフメト2世(Fatih Sultan Mehmed)について書かれたものには、立場によって描き方が大きく異なる傾向があります。トルコでは「祖先」と聞いて多くの人がこの人物を思い浮かべ、キリスト教の首都を征服したスルタンというイメージが根強くあります。
しかし実際の人物像はそれだけではありません。
メフメト2世は子どものころに学んだギリシア語を母語のように話したと伝えられ、アマスヤ(Amasya)の統治でも成果を上げました。征服者となった後は、ビザンツから受け継いだ古代ギリシアの文献を、内容を問わず丁寧に保存したことでも知られています。ビザンツ皇帝の遺体に対しても、当時の慣習に沿った敬意を示したとされ、肖像を描くことが禁じられていた価値観の中で、自身の肖像を画家に描かせるなど、ルネサンス的な発想を先取りしていた一面もありました。詩人でもありました。この点はあまり知られていませんが、残した作品は、宗教的な主題だけに限られていません。現代において「征服者(ファーティフ)」という呼び名が、宗教的な文脈と強く結び付けられて語られることが多いのは、史実としての人物像とは別の文脈で形成された部分も大きいと言えます。
8. 最後の皇帝の選択

最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴス(Constantine XI Palaiologos)は、身の安全を確保して他国の王や皇帝として生きる道を複数回示されながら、それをすべて断った人物でした。征服の8日前、スルタン・メフメト2世は使者を送り、都市を明け渡せば皇帝とその家族が財産を持って退去することを認め、皇帝をペロポネソス半島の王として認める、さらに城内に残る人々の命も保証するという条件を提示しています。6〜7倍の兵力で都市を包囲していたスルタンとしては、かなりの温情です。それでも皇帝は拒みました。包囲が解かれれば今後支払う貢納を増額し、オスマン側がすでに得た城塞をすべて正当なものと認めるとまで述べながらも、都市そのものを譲ることについては、次のように答えたと伝えられています。
「この街をあなたに譲ることは、私にも、ここに暮らすどの者にもできないことです。私たちは街を手放すのではなく、ここで自ら死ぬことを選びました。命を惜しむつもりもありません。」
城壁が破られ、市内の一部がすでにオスマン軍の手に落ちたと知った皇帝は、胸に着けた鷲の紋章と、紫色の帝衣、皇帝の記章を取り外し、別の場所で王位を継続する道ではなく、かつて自ら治めた街の通りで名もないビザンツ兵の一人として死ぬことを選びました。今日では権力者が隠れ場所で発見される例も少なくないことを考えると、最後まで威厳を保ったこの皇帝の姿は、勝者側からはあまり語られてこなかったものの、改めて評価されてよい振る舞いだと言えます。
9. 要の指揮官の最期

ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴ(Giovanni Giustiniani Longus)はジェノヴァ出身の軍人です。包囲の知らせを受けると、自費で費用を負担し、ジェノヴァとキオス島(Chios)出身の兵からなる約700人の部隊を率いてコンスタンティノープルの防衛に加わりました。現存するほぼすべての記録で、彼は防衛戦の要として描かれています。彼がいるだけで、城壁の士気は保たれました。普段なら互いに反目し合うヴェネツィア人・ジェノヴァ人・ギリシア人を、争わせるのではなく城壁の修復作業に向かわせるだけの統率力もありました。
ジュスティニアーニは陥落当日の5月29日、致命的な負傷を負います。砲弾の至近弾によるものとする記録もあれば、タタール式の弓で撃たれたとする記録もあります。ただ、多くの記録が一致して伝えているのは、ジュスティニアーニが担架でイェニカプ方面へ運ばれていった瞬間から、城内の守備側に取り返しのつかない動揺が広がったということです。皇帝自身がその場に残っていたことも、防衛の中核だった700人のジェノヴァ兵が持ち場を離れたことの影響を覆すことはできませんでした。
この時、ジュスティニアーニを負傷させたオスマン側の射手の名前は、後述するウルバトル・ハサンのように今日まで語り継がれてはいません。
ジュスティニアーニは負傷後、皇帝の説得にもかかわらず船で街を離れ、その後キオス島でこの傷が原因で亡くなったと伝えられています。
10. 湾を封じた鉄の鎖

ガラタとコンスタンティノープルの間に広がる金角湾(Haliç)は、防衛上の大きなリスクを抱えていました。兵を満載した艦隊がここに入り込めば、十分に守られていない都市の内側を直接突くことができたからです。金角湾沿いのビザンツ側城壁は、西側の城壁ほど高くも頑強でもありませんでした。もし敵が現在のシルケジ(Sirkeci)付近に上陸できれば、わずか100人ほどの兵でも宮殿に迫る恐れがあり、さらにエディルネ方面からの主防衛線に兵を回さざるを得なくなる危険もありました。
そこでビザンツ側は鍛冶職人を総動員し、数百メートルに及ぶ鍛造鉄の鎖を作りました。一端は現在のセペトチレル・カスル(Sepetçiler Kasrı)付近に、ガラタ側の端は現在のイェラルトゥ・モスク(Yeraltı Camii)付近に固定され、この鎖によって金角湾は船舶の通行を封じられていました。海上で鎖そのものを切断するのは現実的な手段ではなく、固定点も厳重に守られていたため、オスマン側の艦隊は容易に近づけませんでした。スルタン・メフメト2世が軍船をわざわざ陸路で運んだのも、この鎖を破る手段が他になかったためです。
鎖の大部分は今もあまり腐食せず残り、現在はイスタンブール海軍博物館(Deniz Müzesi)で展示されています。同じ包囲戦にまつわる遺物でも、この鎖が市内で見られるのに対し、第2項で触れた同型の大砲は遠くイギリスのフォート・ネルソンに置かれています。
11. 陸を渡った軍船

鎖という比較的単純な手段で湾を封じたビザンツ側の策を崩すのは簡単ではありませんでしたが、守備側も、まさかこの策が破られるとは予想していませんでした。
船を金角湾に入れることには二つの実利的な理由がありました。一つは、ガラタとコンスタンティノープルの間で行われていた物資の往来を断ち切ることです。もう一つは、スルタン・メフメト2世が金角湾沿いの城壁の守りが薄いことに気づいていたためで、ここを牽制することでテオドシウスの城壁から守備兵を分散させる狙いもありました。
軍船は木製のそりに乗せられ、油を塗った丸太の上を滑らせる形で、ドルマバフチェ(Dolmabahçe)付近から陸に引き上げられ、タルラバシ(Tarlabaşı)・カスムパシャ(Kasımpaşa)方面から再び海へ下ろされました。決して小さな作業ではありません。
この出来事そのものは陥落当日とは直接関係がありません。軍船が金角湾に入ったのは4月21日、陥落の約1か月前のことでした。これにより、ガラタとコンスタンティノープルの間の小舟での往来が止められ、ビザンツ側の士気は大きく落ち込みます。
4月28日、ビザンツ側は火船を使って金角湾を封じたオスマン艦隊を焼き払う作戦に出ますが、オスマン側はこれを事前に察知しており、作戦は失敗に終わりました。ビザンツ側の火船は多くの損害を受けて港へ撤退します。翌日の4月29日、ビザンツ側はこの報復として260人のオスマン兵の捕虜を城壁上で処刑したと伝えられ、オスマン軍の指揮官ザーガノス・パシャ(Zağanos Paşa)はこれを弱さの表れと受け止め、以後、金角湾沿いの城壁への攻撃の手を緩めなかったとされています。
12. 旗を掲げた一兵士

トルコの歴史の中で、これほど下級の兵士が語り継がれる例は他にほとんどありません。ウルバトル・ハサン(Ulubatlı Hasan)についての記録は限られていますが、スコットランドの歴史家ロード・キンロス(Lord Kinross)は著書『The Ottoman Centuries』の中で、彼を並外れた体格を持つ兵士として描いています。ブルサ(Bursa)近郊のウルバト村(Ulubat)出身とされるハサンは、5月29日、矢や石、槍が降り注ぐ中を梯子で城壁へ登り、頂上に旗を立てたと伝えられます。12人の仲間が後に続いて登り切るまで、ハサンは旗を守り続けたとされています。最後は力尽きました。倒れた遺体には27の矢傷があったといいます。外国側の記録では一度は旗が引き下ろされ、城壁の一部が奪還されたとされていますが、その旗がオスマン兵たちをあまりに勢いづかせたため、以後の進撃を止めることはできなかったとも伝えられます。一方、トルコ側の記録によれば、この旗はメフメト2世の治世が続く間、ずっと城壁に掲げられていました。
13. 陥落後の三日間

略奪や強奪は、現代では重い刑罰の対象となる犯罪ですが、1450年代の軍隊にとっては一種の報奨でした。略奪の許可は、軍の士気と戦力を引き上げる手段として、歴史を通じて指揮官たちが用いてきたものです。オスマン軍も例外ではありませんでした。教育を受けて身分を上げるという道がほぼ存在しなかった当時の人々にとって、戦場を生き延びることと、略奪の機会を素早く生かすことが、生活を大きく変える数少ない手段でした。スルタン・メフメト2世は、無条件降伏ではなく力による陥落となった都市について、征服後の3日間を兵士による略奪にあてることを認めました。
現在の価値観で見れば、極めて痛ましい出来事であったことは否定できません。当時は奴隷制度もまだ一般的だった時代です。コンスタンティノープルは、人そのものが略奪の対象となる時代に包囲された都市であったため、陥落後に教会や自宅に逃げ込んでいた市民は隠れ場所から引き出され、社会的地位や身体的特徴によって分けられ、下層とみなされた人々の多くが奴隷市場に送られたとされています。外国側の記録では、陥落直後の数日間、暴行や殺傷が多く発生したとも記されています。市民の多くは、これを避けるために3日間身を隠していました。ビザンツ宮廷の歴史家ゲオルギオス・スフランゼス(Georgios Sphrantzes)は、この略奪の終わり方を次のように記しています。
「街が陥落してから3日目、スルタンは喜びと勝利を携えて街に入りました。その後、ある布告を出させました。『この街に住むすべての年齢の人々は、隠れていた場所から出てきなさい。今は自由な身であるため、問われることはない』という内容でした。さらに、すでに街を離れていた者や財産を失った者の持ち物を、権利を持つ本人に返しました。もし家に戻るのであれば、身分や宗教を問わず、何も変わっていないかのように、再びその所有者になれると告げました。」
14. 西へ逃れた学者たち

当時の西方世界で最も人口の多い都市がトルコ軍の手に渡ると、これ以上この街に留まりたくないビザンツのギリシア人学者や詩人たちは、ラテン世界へと移っていきました。代表格はヨアニス・アルギロプロス(Ioannis Argiropoulos)とコンスタンティノス・ラスカリス(Constantine Lascaris)です。特にフィレンツェへ移った際、彼らは自らの思想と古代ギリシア哲学の文献を携えていきました。その結果、それまで宗教的な保守性に強く結び付いていたイタリア半島は、短期間のうちに思想的な転換を迎えます。コンスタンティノープルからの最後のビザンツ知識人たちが、ルネサンスの引き金を引き、その後のヨーロッパの知的刷新につながったとも言われています。
もしイスタンブール征服が起こらなかった場合、ルネサンスと宗教改革がどれほど遅れていたかは、今となっては推測するほかありません。
15. 留まった人々の運命

実際には、留まった人々のほうが多数派でした。
メフメト2世が征服後すぐに行った施策のひとつが、ゲオルギオス・スコラリオス(Georgios Scholarios)を新しい総主教に任命し、東方正教会とほぼすべてのギリシア正教徒を保護下に置いたことです。もし正教会を解体する道を選んでいた場合、カトリック世界がどれほど結束を強めたかは分かりませんが、この決定によってイスタンブールは帝国の終わりまで宗教的・民族的な多様性を保ち続けました。20世紀初頭の人口調査でも、非ムスリムの人口はムスリムとほぼ同じ比率だったと記録されています。
ギリシア系住民はガラタやフェネル(Fener)地区に住み続け、「ファナリオティス(Phanariotes)」として知られるこのギリシア系オスマン人の家系からは、後の時代に多くの官僚や政治家が輩出されました。トルコ独立戦争後の住民交換で、最終的に多くがこの地を離れることになり、残っていた層も1955年の事件を経てさらに減少しました。現在、主に島嶼部に数千人規模で残るギリシア系住民は、ビザンツの歴史を今もこの地で継承する、ディアスポラ外の最後の存在と言ってよいでしょう。
16. 今も残るイスタンブール征服の記憶

ギリシャとトルコの間にある緊張の根底には、今もこの征服の記憶が残っています。1919年にギリシャ社会で高まった「メガリ・イデア(Megali Idea)」は、イスタンブールの奪還とアヤソフィアを総主教座に戻すことを軸にナショナリズムを刺激し、イズミル占領、そして現在トルコ独立戦争として知られる時代の始まりにつながりました。現在では、イスタンブール征服は歴史的事実というより、ある種の象徴として扱われることも多くなっています。一方でギリシャ側でも、毎年5月29日にコンスタンティノス11世パレオロゴスを追悼する動きがあり、その中で対トルコ感情が表に出ることもあります。伝説の一つでは、皇帝はイェディクレ(Yedikule)付近の洞窟で眠っており、機が来れば目覚めて再びイスタンブールを取り戻すと信じられているとも言われます。
参考:Wikipedia「Fall of Constantinople」、Wikipedia「Dardanelles Gun」(フォート・ネルソン所蔵の大砲について)




















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