イスタンブールで訪れたいアルナヴトキョイの魅力11選

イスタンブールのボスポラス海峡沿いに、アルナヴトキョイ(Arnavutköy)という小さな町があります。石畳の坂道と木造の邸宅が、今も残っています。観光客でにぎわうタクシム(Taksim)地区とは、まったく違う表情を見せてくれます。ここに挙げる11の見どころは、ビザンツ時代から現代までのアルナヴトキョイの歩みをたどる、イスタンブール散策の格好のガイドになります。
1. ボスポラスの真珠
ベシクタシュ(Beşiktaş)からオルタキョイ(Ortaköy)、クルチェシメ(Kuruçeşme)を抜けると、歴史的な邸宅が並ぶアルナヴトキョイに着きます。海沿いには魚料理のレストランやカフェが連なり、ボスポラス海峡の景色は季節を問わず楽しめます。不釣り合いな新しい建物も一部にあります。それでも、石畳の細い坂道や階段のある路地、バルコニーから垂れる色とりどりの花が、昔話のような雰囲気を今も残しています。魚料理と海の眺めが目当てなら海岸道路沿い、古い町並みを歩きたいなら坂の上の路地と、同じ町でも楽しみ方は分かれます。坂を一本上がるだけで、海沿いのにぎわいが急に遠く感じられるのもこの町らしいところです。
2. イスタンブールの古き町アルナヴトキョイ
アルナヴトキョイは、ボスポラス海峡のヨーロッパ側、ベシクタシュ区に属する歴史ある地区です。イスタンブール北西部には、2008年に独立した区となった同名のアルナヴトキョイ区もあるため、混同しないよう注意してください。場所はクルチェシメとベベック(Bebek)海岸の間です。内陸側は、エティレル(Etiler)やウルス(Ulus)の丘まで広がっています。ボスポラス海峡のアジア側にあるカンディッリ(Kandilli)やカンルジャ(Kanlıca)と同じように、この町も海辺の邸宅と、まだコンクリートに侵食されていない丘の斜面によって、昔ながらの雰囲気を保っています。
3. 天使の村
この土地は、時代ごとに名前を変えてきました。古代には石灰窯があったことから「ヘスタイ」と呼ばれていました。ビザンツ時代にはローマ総督プロモトスがこの地に別荘を建てたことから「プロモトゥ」、6世紀以降は「アナプルス」と名付けられたと伝えられています。名前の移り変わりそのものが、この土地の歴史の長さを物語っています。では、なぜ「天使の村」なのでしょうか。言い伝えによると、この地には大小さまざまな教会や聖泉があり、コンスタンティノス帝が建てたとされる大天使ミカエルを祀る聖堂もあったことから、「天使の村」とも呼ばれるようになったそうです。
4. アルバニア系イェニチェリの村
アルナヴトキョイは、オスマン帝国時代には行政上ガラタ・カドゥルックに属し、共和国時代にベシクタシュ区へ組み込まれました。もとは、聖泉がいくつかあるだけの小さなボスポラスの村でした。
イスタンブール征服後、この地に定住したアルバニア系のイェニチェリ(オスマン帝国の常備歩兵隊)にちなみ、「アルナヴトキョイ(アルバニア人の村)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
5. 名高い行楽地
ビザンツ時代にはブドウ畑、オスマン時代にはイチゴの産地として知られたアルナヴトキョイの丘の森は、オスマン皇帝の直轄地でした。16世紀以降、ブドウ園や庭園を備えた行楽地として評判を集めたと伝えられています。意外にも、19世紀半ばまで人口の多くを占めていたのは、町名の由来となったアルバニア系ではなく、ギリシャ人とユダヤ人でした。手入れの行き届いた美しいギリシャ系の町として知られていましたが、オスマン帝国末期には酒場や娯楽施設が多かったことから「小さなベイオール(Beyoğlu)」とも呼ばれていました。
6. 白いパンと乾パン
こうしたギリシャ人とユダヤ人の町に、スルタン・マフムト2世の時代からはムスリムも定住するようになります。旅行家エヴリヤ・チェレビは『旅行記(セヤハトナーメ)』の中で、アルナヴトキョイについて「パンと乾パンは白く、ユダヤ人は趣味がよく音楽を好み、ギリシャ正教徒はラズ人の気質を持ち、ムスリムの数はごくわずかだ」と書き残しています。町の印象を記すのに、まずパンの白さを挙げているのは少し不思議に感じられるかもしれません。
7. 海に突き出た桟橋道路
聖泉やブドウ園、庭園、森の中の別荘、海沿いに並ぶ邸宅で知られた昔のアルナヴトキョイの姿は、今ではすっかり変わっています。実は、変化が始まったのはそれほど昔ではなく、1960年代以降のことです。オルタキョイからアルナヴトキョイへ続く道が狭く、増える交通量に対応できなくなったため、まず海側の建物の多くが取り壊され、バスが通る海岸道路が整備されました。同時に木造家屋も取り壊され、代わりにコンクリートの建物が建てられるようになります。火災、そしてその後の開発とコンクリート化に向き合いながら、町の景観は急速に変わっていきました。1980年代以降、海岸道路の拡張工事で海の中に杭を打って作られた道ができたことで、海沿いの邸宅は本来の「ヤル(水際の邸宅)」としての姿を失っていきます。道路は便利になりましたが、その代わりに失われた景観は小さくありませんでした。
8. アイヴァズ・パシャザーデ邸
アルナヴトキョイの自然の美しさに加えて見逃せないのが、かつて軒先を海が洗っていた邸宅と、威厳のある離宮の数々です。その一つが、アルナヴトキョイ最大の邸宅であるアイヴァズ・パシャザーデ邸(Ayvaz Paşazade Yalısı、アリ・ヴァフィ館としても知られる)です。1915年、クレタ島出身のアリ・ヴァフィ・ベイが、あるアルメニア人の銀行家からこの邸宅を購入しました。外観の特徴は、大きな二つの出窓です。その両脇に、ひと回り小さな出窓が寄り添うように配置されています。邸宅の裏手には、アリ・ヴァフィの森が広がっています。1919年の火災で焼失したものの、1980年代に当時の姿を再現して再建されました。 注意点:現在は個人所有の邸宅のため、内部は一般公開されていません。
9. タクシアルヒス・ギリシャ正教会
ボスポラス海峡のヨーロッパ側、アルナヴトキョイのサトゥシュ広場に位置するタクシアルヒス・ギリシャ正教会(Taksiarhis Rum Ortodoks Kilisesi)は、16世紀にはすでに裕福なギリシャ人たちによって、病を治す力があると信じられていた大天使ミカエルに捧げられていたと伝えられています。ビザンツ時代の記録は残っているものの、その時代を記した銘文は現存しません。現在の建物は1896年から1899年にかけて建てられたもので、碑文からはムズロス・パシャの寄進によることがわかります。教会の南側には、ムズロス・パシャの一族の墓所があります。 注意点:ギリシャ正教会のため、肌や肩の露出を控えた服装での見学がふさわしいとされています。
10. テヴフィキイェ・ジャーミィ
アルナヴトキョイの海岸道路沿い、交番のすぐそばに建つテヴフィキイェ・ジャーミィ(Tevfikiye Camii)は、「アルナヴトキョイ・ジャーミィ」や「アクンティ・ブルヌ・ジャーミィ」とも呼ばれるオスマン時代のモスクです。所有は財団局(ヴァクフ局)で、設計者の記録は残っていません。当時まだムスリムの住民が少なかったこの町に駐屯していたムスリムの兵士たちが礼拝できるよう、スルタン・マフムト2世が息子シェフザーデ・テヴフィク王子の名を冠して建てたとされています。建設は1832年に始まり、1838年に礼拝が始まりました。 注意点:モスク内に入る際は靴を脱ぎ、肌の露出を控えた服装が求められます。
11. イッゼトアバード離宮
「イッゼトアバード離宮」(İzzetabad Kasrı)、通称「ボヤル・キョシュク(彩色の館)」として知られるこの建物は、1791年、サフランボル出身の大宰相ハジ・メフメト・イッゼト・パシャのために、アルナヴトキョイの高台に建てられました。7年後に火災で焼失し再建された離宮は、スルタン・セリム3世とマフムト2世も利用したと伝えられています。スルタン・アブデュルメジトの時代、1840年代にいったん取り壊され、今度はマフムト2世の孫であるフェリデ・スルタンとセニイェ・スルタンのために再建されました。1968年に売却され、1975年には取り壊して住宅群を建てる計画が持ち上がります。しかし、改正されたボスポラス都市計画法により、計画は実現しませんでした。この法改正が、離宮の跡地を守ったことになります。1989年に所有者が変わったこの土地には、1992年にイッゼトアバード離宮が再建され、1791年に建てられた当初のままの、シンプルで上品な姿を今もボスポラス沿いに残しています。
現在、アルナヴトキョイを含む海峡沿いの一帯は、1983年に制定されたボスポラス法(Boğaziçi Kanunu、法律第2960号)の対象区域です。この法律は、海峡の文化的・歴史的価値と自然の美しさを守り、人口の密集につながる建設を制限することを目的としています。
開発の波をくぐり抜けてきたこの小さな町には、ボスポラス海峡が歩んできた何世紀分もの物語が、今も静かに息づいています。
参考情報:ボスポラス法(Boğaziçi Kanunu、法律第2960号)/トルコ法令データベース(mevzuat.gov.tr)




















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